地方A大学 老年看護専門看護CNSコース

[自己紹介]
〈名前〉
Hexe

〈現在の所属〉
A大学院 老年看護専門看護師専攻

〈看護学生、臨床時代のバックグラウンド〉
専門学校卒業し認定看護師を取得

〈連絡先〉
twitter名:@Hexe_9014

 

[受験]
〈その大学院を選んだ理由〉
認定看護師取得後、患者さまに実践、看護職に指導、看護職に対し相談を行う3つの認定看護師としての役割を果たさなければならないと思っていました。しかし、病院側が私に求めてきた役割はスタッフ教育でした。教育委員として、年間教育の計画、認定分野以外での勉強会、他職種との折衝など多岐に渡りました。その上、認定活動の研究発表も当然のように求められ、専門看護師と認定看護師の役割の違いを上層部が分かっていないと感じていました。
認定課程は、約7カ月間の即席栽培であり、ひたすら暗記に追われるような毎日でした。
専門学校卒であり、私立病院で働いていた私は、看護理論だけでなく、看護診断も学んだことはなく、記録は先輩の真似をして書いていたようなものでした。認定課程では、看護診断や看護理論などは当然できている、理解している人が入学することが前提でした。そのため、課程のなかで学習項目にはなく、自己学習しました。しかし、病院側は認定を取得しているから、できるだろうと、その勉強会開催もするように言う有様でした。
退院指導に力を注ぎたいと考えていた私は、次第に、患者教育やスタッフ教育を学び、退院指導の方法論を学ぶためには、院の進学しかないと思うようになっていました。看護教育か老年看護専門看護師(以下、CNS)専攻かの選択については、患者教育に関わり、認定活動と併用していくにはCNSが最適だと考えました。

〈試験内容〉
英語・専門科目(老年看護学)・面談
 英語は長文2題で、その内の1題に小論文が含まれる内容でした。社会人入試を選択しましたので、点数は2/3に圧縮でした。受験勉強として、過去問内容から看護に関する論文からの出題でしたので、他の看護大学で使用されている長文読解本(看護内容)を中心に、毎日単語(単語帳を持ち歩き繰り返し暗記)とreading(訳)を継続することを自分に課していました。
(英語の勉強を本格的にしたのは受験1年前で、高校卒業から随分経っていることもあり、週に2回、個人の家庭教師に来ていただいていました。)
 専門科目は5題の内から2題の選択式でした。老年看護学の本を2冊何度も読み込み、暗記ではなく理解することに努めていました。
 面談は、教授3人に私一人と個別式面談であり、認定看護師でありながら、CNSを受ける理由と経済的な面を尋ねられました。

〈受験の時に苦労したこと〉
まず、周りに看護大学の院卒者がいなくて、院内にもCNSが在籍していませんでした。院受験を認定課程の教授に相談したりしましたが、私自身に業績が無いことと、認定として数年しか経ていないことから、認定看護師活動に力を入れなさいとの事でした。また、私は年齢が40代ですので、1年でも早く進学したいと思っていましたが、同僚からは、「認定として病院に必要とされているのに何を目指しているのか、ブレ過ぎている。その歳で2年も進学すると再就職は難しいと思う。」と言われました。認定仲間からは、「院は実践での経験年数が長いと机上の理想論である教授達と合わない。」、と忠告を受けました。息子からは、「院は勉強しにいくところではない、何を研究したいかでいくところ。院をドロップアウトする人も多いって聞くし、その歳で何がしたいのかわからない。認定で十分だと思う。」と言われました。
賛成の声はありませんでした。私は、学部卒ではないので、学歴を手にいれたいだけなのか…上層部と自分自身の役割の乖離から逃れたいだけなのか…自分自身に何度も何度も問いかける毎日を過ごしていました。認定活動開始から二年目の秋から年末にかけてのことでした。
 余談ですが、この頃にネットなどで、院受験の方のブログ等を読ませていただいていましたが、私のような方は探しだせず、英語の勉強法のみ参考にしました。
その時に受けた研修の初対面の先生(大学の教授)に、勇気を出して、院受験をしたいが反対されている旨を伝えましたら、「院は行きたいときが受験の時よ、あなたの今が院なのね。」と励ましを受けました。のちに合格の報告を連絡しましたら、とても喜んでくださり、今もご縁が続いています。そのことをきっかけとして、学会で出会ったCNSコース在籍の方や大学教授に、積極的に名刺交換をお願いし、今後ご相談をさせていただくことは可能かと快諾を得て、やっと受験相談の窓口が見つかりました。「年齢は関係ない、受けるべきよ。視点が拡がるし無駄ではない。」と言われたことは忘れることが出来ません。

2017年2月
 夫に相談しました。
夫の「受けるのなら合格しなさい。(現場が長すぎて)院に合うかどうかは、人の言葉ではなく、自分で決めたらいい。入学してみないと合うかどうかわからない。ダメだったら辞めたらいい。仕事は辞めても構わない。」に安堵感と、後には引けないと思いました。
ただ、夫から出された条件は別居不可、通学できる範囲で探すことでした。

2017年3月/4月
 通学できる範囲のCNSコース設置の大学は、3大学しかありませんでした。結果、3大学全ての教授と面談しました。
 面談=受験の予備審査的な意味合いもあることは、この時点で知りませんでした。廣瀬さんが1回目で述べられている、教授の論文を読んでおくことも知らず、本当に面談=院受験の相談という意識で臨んでしまいました。
 一人目の教授には、CNSにストレートで合格しても、今から3年後である、そこから何を社会に還元できるのかと尋ねられても上手く答えられませんでした。この教授は二人のCNSをご紹介くださいましたが、二人共30代と若く、勉強は大変で家庭と両立は正直難しいのではないかとのご意見でした。
 二人目の教授には、一人目の教授との面談を考慮して、CNSではなく研究コースの方が、テーマと合致しているのかをお尋ねしました。返答は、その歳で研究コースにしても今さら教授になることは難しいので、実践のCNSコースにすべきだが、私の研究とは方向が違う、専門の疾患が私の認定分野と違うので、と言われました。 どちらの教授にも、仕事を辞めて進学する旨があることを伝えていました。後から知ったのですが、辞めて入学すると、ゼミ生の就職先を指導教授が探さないといけないらしく、年齢的に難しいと敬遠された部分もあったのではないかと思います。そして、CNSか研究かの基準は、教授の考え方次第だなと思いました。
 この時点で、学会で名刺交換させていただいた方に相談しました。そして、「年齢を言う教授のところには行かない方がいい。二年間しんどい思いして続かないよ。」と忠告だけでなく、通学範囲(新幹線通学も考慮)をぎりぎりまで拡げて、進学希望の教授の論文から自分と考えが近いか、テーマが似ているかの視点で読み込むことと、CNSでないのなら研究コースに変更して院進学するのか、院進学を諦めるのかを考えておきなさいとアドバイスを受けました。
 このころ、院受験を周りに公表し、受験しやすい雰囲気にもっていくように意識していました。師長もこの時点では、反対というよりは、(私が)勉強することはスタッフの意識も高まることにもなると容認していました。公表したことで、同僚から院卒者の方と引き合わせていただけ、やっと詳細な教授の面談のお作法を教わったのです。

2017年7月
 いよいよ三人目の教授に面談の申し込みを致しました。この時点で、やはりCNSコースが自分の進みたい道だと決めていましたので、面談でダメにならないようにと緊張しすぎて食事も摂れない状態でした。面談で、教授の「人生100年時代よ、少子化なんだから働けるだけ働けばいいのよ。」の言葉に、帰りの車中で嬉し泣きが止まりませんでした。
10月受験で願書提出は8月末から9月でしたので間に合うと思っていましたが、教授との面談は1回だけでなく複数回必要の場合が多いことと、1回目の面談で受験すると言い切らずに、まず面談を繰り返すようにアドバイスを受けていたこともあり、今年受けたいと言い出せずにいました。後から教授に、「来年度の受験かと思っていた、早く言えば良かったのよ。」、と言われたことも今ではいい思い出です。(笑)
 秋の受験には間に合わず、倍率的には厳しくなりますが、後期の受験をすることになりました。後期は若干名の募集でした。もし、落ちても、この教授との出会いを大切に、来年度も受験する旨を伝えていました。
 師長に受験を伝え、看護部長からも了解を得ていましたが、副院長の許可を得る必要がありました。CNSコースでしたので、受験申請書式の一つに推薦書が必須でした。その返答は、「院卒ナースはいらない。CNSは加算がつかないので、施設として欲しいのは感染認定看護師です。」でした。
心が凍るとはこういうことかと血の気が引きました。当院には、認定看護師に対する支援制度はありましたが、専門看護師に対する支援制度はなく、進学するのなら暗に退職になるわよとも言われました。そして、やっと指導を受けられるかもしれない教授に、このことをご相談する勇気はありませんでした。師長の「もう1~2年待てば…、その間に副院長の考えも変わるかもしれないし…。」という言葉の裏に、時間をおけば諦めるだろうという思惑が透けて見えました。
どうしたら、推薦書をいただけるかと考え、認定看護師としての自分の活動やスタッフのアンケート結果をまとめ、CNSになれば、この病院に何を還元できるかをSWOT分析も交えながら、師長にプレゼンを行い、お力添えをお願いしました。私の想いを受け止めてくださり、師長が「(後期の合格は難しいので)落ちるだろうし、悔いのないように受けさせてあげましょう。」と副院長を説得してくれ、何とか推薦書を手に入れることができました。病院の応援のもとに受けるわけではないので、勤務だけでなく、認定活動や委員会活動に配慮はありませんでしたし、推薦書の協力だけで有難いと思っていましたので、受験日を含む3日間だけのお休みの勤務希望を提出しました。
 結果は合格しました。私は社会人学生としての長期履修ではなく、常勤との両立は困難であることと、入試までの上層部とのやり取りで、この病院の考え方についていけないと思っていましたので、退職を申し出ました。3回申し出ましたが、お力添えいただいた師長から、「上はともかく、現場では貴女の働きが必要だから戻ってきてほしい。」と引き留められ退職届をいただけませんでした。

 

[入学]
〈退職に至る経緯〉
 上述の経緯があり、常勤からパートへの勤務変更という形で在籍中。

〈入学前に準備したこと〉
 合格後に指導教授の面談があり、入学までの読むべき本と英語の学習は継続するように言われ、受験勉強の英語の復習を行っていました。立つ鳥跡を濁さず、今までの認定活動報告書など全ての書類作成を行っていました。

 

[大学院生活]
 CNSコースは取得しなければならない単位が多く、週5日座学の毎日でした。毎週、講義毎に指定された本や論文の読み込み、プレゼンをする日々でした。その講義をとるメンバーが多ければプレゼンの発表順番が、回ってくることは少なくなりますがプレゼンまでにメンバーの資料を読み込み、ディスカッションできる状態にしておかなければなりません。授業での参加態度もその講義の点数に入ることになっています。もちろん院ですので、英語のプレゼンなどもあり、常に3つぐらいプレゼン準備を抱えている状態でした。
 講義は昼からか夕方からがほとんどなので、朝に家事を済ませることは、共働きが長い私にとって、特に負担が増えたようには感じていません。土曜日は社会人学生と合わせるため、朝から一日中集中講義が入ることが多いです。
 夜は23時ぐらいに帰宅し、一度寝て、4時に起床し勉強します。6時から8時半までに1日の家事を終えるようにし、9時から大学に行くリズムです。電車通学なので、その間に睡眠確保しています。(笑)
 大学の授業料と通学費は私の貯金から出しています。生活費は夫に全て頼っています。保険は、夫の扶養に入り、日・祝日に扶養枠内のパート勤務をしています。パート代は、本代と学会維持費や学会の交通費で毎月消えている状態です。大学でないと文献検索が難しく、結果、ほぼ一日中大学で過ごす毎日です。総合大学ではないので、図書館の蔵書数は少ないと聞きますが、他大学を知らないのでなんとも言えません。ただし、私が読みたいと思った本が無かったことは、今のところありません。文献の取り寄せに関しては、他大学だと自費と聞きますが、当大学では大学負担で取り寄せてくれます。

〈卒路の進路〉
 博士課程の進学を考えています。

 

[研究、実習の様子]
 入学してやっと、前期が終了したところですので実習は特に行われていません。
研究のテーマである退院指導について、この夏、ひたすら文献検索を行って先行文献を探し読む読む読む…のエンドレスです。
入学してやっと、前期が終了したところですので実習は特にありませんでした。

 


[応援メッセージ ]

 私は子育ても一息つき、紆余曲折ありながら、やっと自分の学びに勤しんでいます。学びに遅すぎるということはないと思っています。確かに記憶力など苦労もありますが、院の学びから、自分の今までの指導が経験知によるものだったと恥ずかしくなりますが、足りないことを知る毎日が楽しくて仕方ありません。
今の新人看護師が学部でどんなことを勉強して入職してくるのか、私の時代にはなかった家族看護学や看護教育と看護学教育の違い、看護理論の深化などなど、本当に視野が拡がっていくことを実感しています。
 院進学に対し、皆さんからいろいろなご意見をお聞きしました。厳しいご意見もありましたが、自分で自分の価値を落とさない!!ことを最後の砦にし、必死で踏ん張った日々も思い返せば、つい最近だったんですね……。
 世界のイチローでさえ、一番辛かったこととして、(子供のころ)周りがプロ野球選手なんて無理だと諦めさせられる空気感だったと述べています。一人一人、方法論は違っても、きっとどこかに小さくても突破口はあると思います。
 私は、現在もその病院に在籍していますので、今回実名を伏せさせていただきました。全てのことは、私から見て感じた一方向の視点だということもご了解ください。
 その上で、ご相談にのれることがあれば、ぜひ院進学を応援したいと思います。ご遠慮なく、連絡お待ちしています。
  
  このような機会を作ってくださった廣瀬さんに感謝いたします。

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